論座で「倉持麟太郎 リベラルをリベラルに考える」という連載をスタートしました!
一発目は、アメリカ大統領選を題材に、「切り取られた民主主義」について。
です。
大統領選だけでなく、我が国の国会論戦や都構想等々、自身が支持する政策が実現し、好みの人間が選挙で勝てば「民主主義は機能している」と言い、自身が支持する勢力が負けると「民主主義は機能していない」と言う光景に、一体ここでいう民主主義ってなんだ?ということに対する考察です。
①そもそも民主主義とは、「共通基盤=スポーツでいうルール」で、議論の「前」に存在するものだったはずなのに、議論が決着した「後」に、自身の立場を正当化するために民主主義が「切り取られたかたち」で”援用”されるようになりました。
スポーツでそれぞれが違うルールで同じ競技をやっていたら、そりゃあ結果を双方が受け入れないし、尊重しないですよね。
②対話と熟議という民主主義のルールを尊重するからこそその決定に「自発的服従」をする。そのことによって、民主的決定が「公=公共性」を有するんだと思うんです。
しかし、ルールを尊重せず、「自発的服従」を拒否する(トランプの姿勢そのもの)と、民主的決定が「公=公共性」を調達できないんですね。
③実は、これは、近代立憲主義が「公」空間には存在すべきではない(と特にエリートが考えてきた)「怒り」や「疎外感」といったむき出しの「私」的情念が、そのままトランプやバイデンを媒介として「公」になだれ込んだ結果、「公」の最大の発露であるとされた公的「市民」としての立場での「投票」行動が、私的「個人」の立場からの敵対的意思表示に成り代わったんだと思います。
でも、この「私」的”情念”みたいなものを無視したらだめです、だってこれも民主主義の構成要素だから。
④これへの処方箋は、やはり法(法の支配)なんだろうと思います。また、このビジョンとして、オークショットの「会話」という概念が有用だと紹介しました。
オークショット、自身は保守と言い保守思想家と分類されながら、私が学生の時受けた井上達夫先生の講義では、「会話」の概念はリベラルな「共生の作法」として紹介していたのです。
ここに!保守とかリベラルとかの接合点も見出したのです。
「会話」のルールとしての「法」
ここに希望を見出します。
民主的決定を否定したトランプが最後の闘争を「法」と「司法」に頼ったことが、皮肉ながら希望なんじゃないかなと。
紹介長くなりましたが、三連休に是非!
12月6日14時~のゴー宣道場『コロナ後のリベラル』の頭出しにもなってると思います、これを読んで道場にきてください!
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